ユゼフ・ヴィルコン(その2)

前回の続きです。ユゼフ・ヴィルコン氏とのインタビュー部分です。

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ドロタ・ヤレツカ:ヴィルコンさんにとっての基準点となったのは何だったのでしょうか。ミツキェヴィチの文章ですか?それとも1881年に描かれたアンドリオリ(Andriolli)の有名なロマンチックなイラストだったのでしょうか?

ユゼフ・ヴィルコン:私の構想は、アンドリオリのビジョンを意識的に投影したものでした。私はその絵を遠くに立てかけました。というのは、概観的に捉えたかったからです。―強大な自然、その中に見える遥かなるシルエット。ミツキェヴィチの劇作品を既にアンドリオリが示していたと考えました。物語の筋の要所を選んでいたからです。「パン・タデウシュ」の雰囲気をかもし出していた舞台を、風景を見に行きました。きのこ狩り、星についての会話、夜の戯れ。これらが証明するのは、ミツキェヴィチが―隠喩的に言いますが―自然画家としての印象派であったということです。そこには古典的な表現技術はなく、ただある出来事の意味を示す新しい形式があるだけです。躍動的で、それでいて繊細な形式が。それはかろうじて触れたもの、わずかに開いた木戸の震えのようなものです。タデウシュは誰かがいるということを知っていた。しかし、誰かは分からなかった。とにかく、そのことが物語の筋に素晴らしく作用しています。そのおかげで、後にゾーシャとテリメーナを間違えることができたのですからね。

「(彼(=タデウシュ)が)気がつく前に、輝くように、突然に、静かに、軽やかに、まるで1ヶ月の光のような彼女が飛び込んできた」タデウシュはここ、太陽の下で見つめていて、目がくらんでいる。

ミツキェヴィチは、移民になって既に丸20年が経過していました。つまり、感覚的な望郷の念から書いていたのです。若い頃の思い出がいつも脚色されていきました。彼が世界に出たのはまだ若い時です。その時頭には世界のビジョンが形作られていたでしょう。もし大人になってそのビジョンがコントロールされるようになったら、それは感情的なショックとなったでしょう。そんなことをする必要はなかったのです。

ヴィルコンさんがそれをなさったのですか?

よせばいいのに、幼少期を過ごした場所へ行ったのです。私は、ヴィエリチカ(Wieliczka)近郊のボグチーツェ(Bogucice)という所で生まれました。18歳の時にそこを出て、クラクフの芸術大学(美術アカデミー)(ASP = Akademia Sztuk Pięknych)へ通いました。そして30年ぶりに故郷へ帰ったのです。その時まず思ったことは、人間は自然に対して何てことをしたのだ、ということでした。その次に思ったことは、子供は自分の身長と比較しながら全てを覚えているものだということです。つまり、実物よりいくらか大きく思っていたのですね。池の近くの野原を横切って学校へ通っていたものですが、そこで私が見たのはプシェミシル(Przemyśl)へと続くバイパスでした。よく牛の番をしていた大きな放牧地には、バラックが建ち並んでいました。村の名前さえなく、ヴィエリチカに吸収されてしまっていました。
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次回へ続きます。続きもお楽しみに!
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by poziomka-bajka | 2005-11-11 02:24 | 画家
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