ユゼフ・ヴィルコン(その3)

前回の続きです。

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ヴィルコンさんのグワッシュ水彩画法に際して距離を置いたことは、ミツキェヴィチそのものからも距離を置く結果となったのでしょうか?

ミツキェヴィチの自然に対する感覚は私のそれと交差しています。「第四乃書」で、熊狩りの前の丸々一節が木々の表現に費やされています。これが自然を守ろうとする宣言であり、現代の自然の視点に立った表現なのです。それ以前は、木々はただ切り倒されるものであり、誰もそのことについてかわいそうだとは思わなかったのです。

ミツキェヴィチは記憶力と観察力には驚くべき才能がありました。他の人々がその存在さえ理解しないようなものにも目を向けました。誰が自然を観察するというのでしょうか。「パン・タデウシュ」の中で、ことあるごとに祝宴を催し、嵐の最中の動物たちの振る舞いをミツキェヴィチは考え出し、描写さえしたのです。例えば、「牡牛は大きな目を挙げて、しきりに空を仰ぎ/恐怖に口を開き、深々と溜め息を吐く/あとからゆく豚だけは不平を鳴らし、道草を食い/歯を剥き、麦束を盗み食い、備蓄用にかっさらう。」こんなことはばかげています。豚が「備蓄用に」なんて聞いたことがありません。豚はいつもただ食べているだけですから。

または、こんな描写はどうでしょう。公証人が警察署長と共にグレイハウンド(訳注:犬の種類)をウサギ狩りに出したときのくだりです。この震えたグレイハウンドは放された後、ウサギのかけひきに出くわします。跳ねながら、ひらりと身をかわし、犬たちを置き去りにして森の中へと消えていくのです。犬たちは途方にくれて、ぼうっと立ち尽くします。私は犬を飼っていましたし、犬たちと野原へ散歩にも行きましたから、怯えて飛び出したウサギがどのような行動を起こすか知っていますよ。

熊狩りのシーンはこの叙事詩中でも血なまぐさいシーンのうちのひとつですよね。熊が倒れ、犬たちが熊の血をぴちゃぴちゃなめるという・・・。ヴィルコンさんはこの残虐さに不快感を感じませんでしたか?

「愚かな熊よ!塒(ねぐら)にじっとしてさえいたら/執事に気づかれずに済んだろうに」大体、ここの場面でミツキェヴィチは熊の側に立っているのですよね。馬鹿だなあ、どうして出かけるのだね?と。ミツキェヴィチは地元のシュラフタ(貴族階級)が銃をどのようにつかんでいるのかを示しているのです。これは原生林の中にはもうあまり熊が生息していなかった頃の出来事でした。斥候はやっとのことで口にしたのですから。「熊だよ、もしあなた!」とね。
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「パン・タデウシュ」からの引用部分は「パン・タデウシュ 上・下」(アダム・ミツキェヴィチ作・工藤幸雄訳・講談社文芸文庫)より該当部分を引用しました。
こちらの本は欄外の「ライフログ」にリンクしていますので、ご興味のある方はご覧ください。
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by poziomka-bajka | 2005-11-17 04:49 | 画家
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